今回のインタビューは、「シュタイナー思想啓蒙と教育実践」の 日本における第一人者、ドイツ文学者で早稲田大学名誉教授でもある 子安 美知子(こやす みちこ)先生です。 子安先生は、千葉県長生郡長南町の21万坪の土地を有する 「あしたの国 シュタイナー学園・こども園」の運営母体 NPO法人「あしたの国まちづくりの会」顧問でもいらっしゃいます。 ルドルフ・シュタイナーによって提唱された「シュタイナー教育」。 子どもが意思・感情・思考において調和のとれた人間として 成長することを目的とし、発達段階に応じて独自の教育課題を掲げる 「シュタイナー教育」の魅力や可能性について、お話を伺いました。 |
エポック授業は、忘れるところに意味がある。「知識」が「体験」に変容する |
![]() 「ドイツへはどのようなきっかけで行かれたのですか?」
まず1966年に、一人で行ったんです。ドイツ側が出してくれる、ゲーテ・インスティテュートというところの、半年だけの奨学金で。 結婚して、子どもがまだ2歳だったけれども、私一人がようやく行ける程度のお金だったから、子どもと夫は置いて一人で行った。でも半年じゃあ、やりたいこがやれない。何とかして、今度は、子どもと夫も連れて3人で来たいと思って、一旦帰って来たの。 その4年後の1971年に、3人で行くことになる。その時は夫の奨学金。彼は日本思想史が専門ですけれども、日本のことをやる学者が、日本語しかできないのは駄目だと。そして学問の方法論としてドイツ哲学は必要だと。 その頃ドイツの大学でも、日本の思想や哲学への関心を強めていましたから、フンボルト財団という、ドイツの奨学金に応募して採用されたんです。そこから、ミュンヘン大学の日本学科に、客員教授として行くことになりました。 家族手当も出たので、非常に助かりました、私と娘を連れて、3人で、1971年から1973年まで。今度は2年間。私達家族の歴史にとって転換を意味するほどの大きなことになりました。娘がちょうど満6歳で、小学校に上がる年です。 「シュタイナー学校との出会いについて教えていただけますか?」
公立小学校で手続きした数日後、本屋さんの前の張り紙に、アンゲーリカ・メヒテルという若手女流作家の朗読会のことが出ていました、聴き手が十数人の気取らない会で、朗読後のお茶会にも残りました。その作家さんが私に「日本からですか」と声をかけてきて、お互いの家庭の話にもなり「子ども、いますか?」「はい、今度小学校1年生」と。 「うちの娘もそうです。シュタイナー学校という、ちょっと面白い学校です。お宅も入れてみたら?」と話が進み、教育の特徴は「詰め込まない。みんなで遊んでいるみたいなところ。外国人も大勢います」と。私は「あら、これもまたチャンス」と思って、家に帰って夫に話しました。 ドイツに着いたばかりの時、私はいきなり娘を近くの幼稚園にぶち込むように入れたの。そうしたら迎えに行くたびに幼稚園の先生に「この子は口がきけないんですか?」と。ドイツ語ではっきり「おし」と言われたの。「いや〜結構おしゃべりな子ですけど」と答えたことなどもある。 その先生が「この子、観察力があって、けっこう理解はしているみたいだけど……」と言われたり。そんなことも特に気にしてはいなかったのだけれど、メヒテルさんとの出会いが、一つ可能性を開いたとも思えて、夫と、ではそのシュタイナー学校というところに入れてみようかとなったのです。 面談日、先生が娘に画用紙とクレヨンを渡して「何か絵を描いて」と促し、娘が家と女の子と木を描くと、「これは何?」。人前であまりしゃべらない娘が、「ハウス」、「メートヒェン」、「バウム」と、ドイツ語ではっきり答えていました。 先生は私に月謝の話や教育の基本的なことなどを話しました。で、数日後教員会議に出した結果の電話がありまして、「入学を歓迎します」だったのです。 「入学してみていかがでしたか?」
驚くことばかりでした。まず学校に上がる前に、私が一番親しくしていたドイツ人の友達に、「シュタイナー学校に入れるわ」って話したら、彼女は「えーっ!」って。「あなたの家の子どもがあんなところに行くことないでしょ」って、呆れた顔をするの。 「あそこは馬鹿が行く学校よ。絵を描いて歌って踊って勉強なんかしない」その反応には私、ちょっと当惑すると同時に好奇心もっちゃった。それから娘がレッスンを受けているミュンヘン音大のバイオリン教授に「この子、そろそろ学校でしょ」と言われて、また反対されるのかな、と思いながら「シュタイナー学校です」と言いました。 この先生も、エッと声を高めたんですけれど、「あなた、その学校のことを知ってたんですか!」と驚いてる。「いや、知りませんでした。こういう訳で勧められて」と話したら、先生は「それは歓迎すべき決心だ」って、私の手を改めて握手する。 その他にも何人かの人達に言ったら、賛成と反対がはっきりありましてね。もう入学前から好奇心満々でしたね、親としては。そして行き始めたら、面白いの何のって…… 。 「面白いとは?」
大きなノートのページにクレヨンでまっすぐな直線を一本描いてくるだけの日、螺旋を描くだけだったり、Kという大文字をページいっぱいの絵みたいに描いていると思ったら、これは王様の絵よ、という。王様は KONIG(ケーニヒ)と言って K で始まるから、その王様の絵から少しずつ大きなKの文字に移るのね。 毎日絵を描いて、それが6週間続いて、その間にアルファベットの大文字が10〜12くらい。あまりにもゆっくりした進み方でした。そしてある日、ドイツ語はしばらくお休み。明日からは数の勉強ですって。 私、びっくりして、迎えに行った教室前で先生を捕まえました。「家の子はやっと大文字が十数語書けるようになったのに、明日から忘れてしまいます。忘れないように私が家で教えておきましょうか?」。先生が「いや、忘れさせてください。忘れなければいけません」って真顔で答えた。 これが「エポック授業」なのでした。次の日から算数エポック。初日は1人の子を黒板の前に立たせて、みんなでその絵を描くの。次の日は2人立たせ描く。ローマ数字のTとUに見えます。3人立てばVに見えます。次のWはどうするのかなと思っていたら、先生はいきなり5人立たせたのね。 クラスの誰かが先回りして、先生そんなことしたらキリないよって心配する。じゃ、何とかしよう。こうしてみよう。5の時には指をまとめたらどうだろう。親指はこうして立たせて、他の4本をくっつけてみよう。なるほど X になる。で、4の時は5からちょっと1人外れてもらおう。すると W になりますよね。 6から先は両手を使って、Y,Z,[。そして10は両手の指をまとめたまま、手首と手首を交差させます。] が出来る。そこから一人外れてもらったら\。このあとXI、XIIまで行くんですけれど、この数字描きのエポックに4週間を費やします。ゆっくり、ゆっくり、とね。で、また算数のエポックも終わったら、「忘れさせなさい」ですね。 「それはどういうことなのですか?」
う〜ん、「忘れさせる」って言っても、肝心なのはね、毎日算数を45分、国語45分と細切れ枠で勉強して忘れるのと、来る日も来る日も算数に集中して100分間を連日、その4週間の後に忘れる必要がある、というのとでは、質的な違いがあるってこと。 「それはエポック授業というものですか?」
そうです。エポック授業だからこそ,忘れるところに意味があるんです。忘れた知識が、いやその「体験」が、形を変容させて残るんです。集中的に入り浸ったことがらは、知識を頭に注入したのではない「体験」なんです。 知識のつもりでいたかもしれないけれど、忘れている間にじわじわと無意識の奥底に沈んでいく。これって凄いこと。意識の表面に残る記憶なんかじゃないのです。その個人その個人の辿る人生、様々な出会いや岐路で、無意識からたちのぼる生命(いのち)の力に変容しているんです。 “宗教革命が1555年の宗教和議によって和解”これ、受験のための暗記ね。この丸暗記をたくさんの量、意識的に保持したとして、生命の力に熟していくでしょうか? 仮に「宗教改革」というテーマを歴史エポックに組み入れるとする。エポックの初日あたりは先生がマルティン・ルターの生い立ちから語ったりしますよ。というのは、歴史に実在した人物にまず身近にいる人のような存在感を持たせるのね。好悪の感情でもいいの。自分との直接な関わりを覚えさせて、年号や細々した事項を客観的に知るのはその後からです。 そういう深入りして続く3週間なりのエポックです。歴史も、地理も、物理も、全科目。美術史は2週間かけてイタリアの美術館巡り。老人ホームや自動車工場の実習も。 その後で忘れると体験が深みに潜ったところで、それは学んだ知識が固定した形で記憶されるのでなくて、形は変容する。生命が作用するから動き出すの。 学校の勉強ってね、全ての科目がその人の生きていく力に変容していくような、その作用を呼び起こすカギでありたいですよ。というところから一つ一つの授業を集中的なエポックの形でグーッと深みに入れ込むの。 だから知識が子どもの頭に表面的に残ってるかどうかを確かめるテストなんてしません。点数を付けることではない。でも通信簿はありますよ。点数ではなくて、子どもを描写する文章で。 「1から50まで足したり引いたり掛けたり割ったりすることが、ほぼできるようになりました」とか「足すのと掛けるのは早々とできる、でも割るということはまだちょっと苦手です」とか。 入学して半年くらいすると、毎月父母会があるんだけれど、両親とも出られるようにペアレンツイブニングと言って、夕食後の8時からです。そこで必ず質問が出ます。「先生、エポックで勉強したこと、忘れる必要があるって言われるのはなぜですか?」って。 自分が何かに夢中で集中して成し遂げた時、後で確かに忘れてるんだけれども、何かがどこかで力になっているって感じること、ありますよね。私もそこを、ちょっと理屈っぽく分かりたいと思って、いろんな本も読みました。そうしたら、こういうことが書いてあった。 シュタイナー学校で長年歴史の先生だった方が、“教師たるもの、目の前にいる子ども達が、今自分の言ってることを全部覚えてくれると思ったら大間違。今この子達に語っていることは、全て忘れ去られる運命にあるということを承知しておけ”って! 私もそれを聞いてガーンって。その頃、早稲田大学で学生達に「忘れちゃだめよ」を口癖にしている教師でしたから。「必ず忘れ去られる運命!」でも、どうもその言葉、当たっている。じゃあその次にどう書いてあるか?“忘れ去られた後に何がその子に残るのか、そのことに思いを致せ” 「そこに繋がってくるわけですね?」
そうなんですよ。だからその本を読んでからは、大学での授業の時「忘れないでね」と言う回数が減りました。時々言ってしまうと、心の中で、また言っちゃった、と自分で舌打ちしていました。 毎週学生達と顔を合わせて言葉を交わしている。そのことの何らかの意味を考えることはよくしました。で、定年退職を迎えた時に、いつこんなことをしたのかと驚くような文集を作ってくれた。ちゃんとドイツ語もしっかりしていて驚きましたけれど、あの忘れ去られる運命というのを自覚していたこととの繋がりがあるのかと思いましたね。 ![]() |