今回のインタビューは、『精神科医は腹の底で何を考えているか』等の 数多くの著書でおなじみの精神科医、春日 武彦(かすが たけひこ)先生 です。 春日先生の、人間の心についての、鋭くかつ優しい論考は、 多くのファン・専門家から支持されています。 精力的な執筆活動と併行して、豊富な臨床経験を持つベテラン精神科医と して、臨床現場でもご活躍の春日先生に、 「現代型うつ」「家族」「言葉のちから」などについて、深いお話を伺いました。 |
大切にしているのは、面白半分ではない“好奇心” |
![]() 「先生は、小さい頃はどのようなお子さんでしたか?」
僕はひとりっ子で喘息でした。そして、喘息のせいで幼稚園にも保育園にも行ってないんです。それに、小学校は電車に乗って通っていたので、近所には友達がひとりもいませんでした。親は何も教えてくれなかったので、小学校に入った時も、右も左もわからないような状態だったんです。 このように、最初から社会性ゼロだったように思いますね。 「では、1年生の時は大変でしたね?」
ものすごく大変でした。 特に子どもの時は、わからないことをどう聞いていいかわからなかったり、質問すること自体が選択肢として思い浮かばなかったりして、結局、自分の中でウジウジ悩んだりして、散々大変な思いをしました。 多分、その時の経験が今につながっているんだよね。適切に物事を尋ねるとか、SOSを出すとかできれば何とかなるんだけど、それができないとか、聞くこと自体が頭に登らない人は結構いるよね。 自分なりにいろいろ工夫してみるんだけど、大概トンチンカンになってうまくいかないから、世の中は敵意に満ちているものだと思ってました。だから、僕は子ども時代に戻りたいとはまったく思わないですね。 「精神科臨床の現場から見て、昔と今で患者さんの傾向に変化はありますか?」
昔の方が症状が派手でしたね。統合失調症は、いかにもって感じでしたし、パーソナリティ障害も、暴れ方やすさまじさがハッキリしていました。 だから、昔の方がメリハリが効いていて、今の方がハッキリしない、生煮えている感じです。ズラーっと薄く広がった、という印象ですね。 「それは、昔は重症化してから来院していた、ということですか?」
そこはよくわからないんだよね。実は、食事の影響も結構あるのではないかと薄々思っています。だって、今まで人類の体に入ったことがない物質が、ここ最近になってどんどん入ってきているわけで、その影響がないわけがないよね。 「患者さんの母数は広がっているのでしょうか?」
広くなっていますね。精神科の敷居が低くなっているのは事実だけれども、それがいいことか、というと、一概にそうとも言えないよね。一番顕著なのが、いわゆる“現代型うつ”ですね。 実際には、パーソナリティ障害圏の患者が圧倒的に多くて、怠けとは言わないけど、本人としては辛くても、それを辛いといったらどうしようもないでしょうと、つい説教したくなるようなレベルでもありますよね。 もちろん、これは本人申告だから、来院したら対応せざるを得ないけれど、本来なら心理療法的なアプローチで治療するべきだと思うし、実際はそんなに多くの時間を割くことができないわけ。 だから、どうしても薬を出す形になるし、患者も薬を希望しているところもある。ところが、本来的に薬は効かないので、そうすると患者がどんどん増えていく、という流れになっていて、完全に悪循環ですね。 さらに、現代型うつでは、他のクリニックから、「もうどうにもならない」ということで、事実上患者を押し付けてくるようなケースも一杯あるんですね。その時に、その症状は本来の病気なのか、または、たくさんの薬を服用した副作用なのかわからなくなっていることもあります。 「副作用の可能性もあるのですね?」
本人は、病人として扱われていることで、病人人格になってしまっているし。病人として生きるというのは、ある意味でラクな部分もあるわけですよね。 病人なら立つ瀬があるし、それなりに承認されるし、ラクな部分もあるから、そういう立場に慣れている患者はものすごく多い。しかも、それで生活保護も受けていたとしたら、そこから抜け出すのは容易じゃないですよね。 考え方によっては、生活保護を受けたら、ラクはラクじゃないですか。だけど、人が生活保護を受けないのは、恥ずかしいとか情けないとか、そういう気持ちがあるからだけど、一旦そこを突破してしまったらもう怖いものなんてなくなってしまうんだよね。 そういう意味では、精神科の敷居を低くしたせいで、生き方を間違えさせてしまったというのはものすごく大きいと思います。生活保護が緊急避難じゃなくなってしまっていますね。 「他に、現代型うつの特徴は何かありますか?」
あと僕が感じるのは、現代型うつは“リセットの儀式”みたいなところがある、ということですね。 現代型うつは長期間休む必要が出てくるので、会社を辞めざるを得なくなります。そこで、普通なら会社を辞めることに焦るはずなんだけれど、意外とみんな簡単に辞めるし、辞めた後、再就職する時には、就職先が格落ちすることが多いけれど、意外と平気な顔をしていて悔やまないんだよね。 自己実現に近い形にはなっていないんだけど、みんなどこか清々した顔をしていて、給料が下がったとか、格落ちしたということを嘆き悲しむ人は意外と少ないんです。 それを見ていると、本来なら、学生時代とか、もっと若いうちに自分探しでジタバタするべきタイミングが後の方に繰り越してきている感じですね。 とりあえず就職して、割といい会社に入ったけれども、何となくこれは自分の本来の姿じゃない、みたいに思うようになって、そこからうつっぽくなって会社を辞めて清々している、みたいな。 どこか通過儀礼というか、本当の自分らしさを選び直す“リセットの儀式”みたいなところがあるような気がするんですね。 こんなことは普通なら言い出せないし、自分でも認めたくないし、周囲も許さないけれど、“うつ”という手段によって、リセットすることを儀式化している人が結構多いような気がします。 「それは、親の呪縛から逃れる、というような感じですか?」
そう。そういったことが思いもよらない形で実行されているということ。そういう意味では、現代型うつは「治す」という発想より、「本人のやりたい形でやらせる」方向でいいのではないか、と感じています。 僕の価値観としては、「今の会社にいた方がお得ですよ」と言いたくなりますけど、そこは本人がどう思うか、が大切だということですね。 あと、“現代型うつ”について、もう一つは言葉の問題だよね。 「言葉の問題ですか?」
患者は“うつ”と言ってくる。だけど、よくよく話を聴いてみると、微妙に違っていて、彼らが“うつ”だと言っているものは、実は不全感だったり、不満感だったり、不安感だったり、納得できない気持ちだったり、違和感だったりする。 つまり、自分自身の細かい気持ちを全て“うつ”という言葉に肩代わりさせているんだよね。 だから、“うつ”と言うと、文字通り“うつ”かと思うけど、実は結構違うんですよね。だけど、とりあえずそれを“うつ”と言ってしまう。そう言われてしまうと、医者は抗うつ薬を出さざるを得ないんだよね。 これは、“言葉の雑駁さ”が問題ではないかと思います。“うつ”という言葉が流行っているから、その言葉に全部流し込まれちゃってる。特に、若い人は言葉が大雑把だという気がするね。 たとえば、「カワイイ」という言葉も、今はものすごくニュアンスが広くて、微妙なイントネーションや文脈によって全然意味が違っていて、「カワイイ」が実は「キモい」と同じ意味になることもあるわけだよね。 仲間内だと全て「カワイイ」で通じるけど、それは仲間内でしか通じないから、外に出ると他人とのコミュニケーションが成立しなくなって、外に出ていけなくなったり、他の人とは話が成立しないと反発したりする。 このように、言葉の使い方自体が、ものすごく雑駁になってきている感じがしますね。 「“うつ”という言葉が、とても便利なものになってきているのですね?」
そう。そして、おそらくそのうち、“うつ”という言葉は別の言葉に取って代わられるんだと思っていますけど、とりあえず、今のトレンドで、且つ、便利な言葉として扱われていますね。 少なくとも医者の立場としては「それは“うつ”なんかじゃなくて、いわば考え方と根性の問題だよ」とは言えないわけだよね。本当は「“うつ”とは違うんだから帰れ」と言いたいけどね。 「そういうことは言えないのですか?」
患者が納得しないということですよね。また、その対応に対して、患者は「見捨てられた」と感じるので、当てつけに自殺されたりしても困るよね。だから、少なくとも相手をしないといけないけれど、かといって話だけ、というわけにもいかないんですよね。 話だけでもいいかもしれないけど、1時間も割けないよね。そうすると、短時間で無難な薬を出すことになる。すると、次の診察の時「あの薬は効かなかった」となって、結局、薬は増えていってしまうよね。 患者も薬を要求しなければいいんだけど、薬が存在するイコール病人認定、という証拠になるわけだから。それも非常に不健康な形だよね。本当は「カウンセラーのところに行け」と言いたいんだけど、1回6千円だと実際は無理だし、まして生活保護の人だとより一層行けないよね。 だから、精神科は、本来は病気を治す場所だったはずなのに、ある種のよろず相談所のような、駆け込み寺みたいな性質を帯びてきている。だけどそれには対応できていないし、そもそも時間的に無理なんだよね。 ![]() |